新河岸川の水面を見つめて30年 風沢洋介さん

 

IMG_20140729_112232「30年前、私がここに来たときは、本当に忙しかったですよ。30軒近くの農家が水田をやっていたからね、夜中じゅう水をあげたこともあるよ」
現在、稲作を行う農家は和光市で2軒。水に恵まれた和光でたくさんあった水田のほとんどが土盛りをされ畑へと転作された。
風沢さんはそんな中、下新倉の揚水小屋に住み、残された水田の行方を見守る。
毎日、汐の満ち引きの時間を調べ、新河岸川の水位をみて、ポンプで水をあげる。
地下にはりめぐらされた水路を通って、水は水田に流れ込む。
「水守」。そのことばそのままの人だ。

風沢さんは千葉県柏市出身。父親は当時の国鉄勤務、母は米や野菜を仕入れ、築地に行商に出ていたという。そんな関係で風沢さんは、築地にある印刷会社に勤めるようになった。
父が退職した頃、同じく印刷工だった兄と印刷会社を立ち上げようとしたこともあったが、タイミングがあわずに断念、石神井にあった園芸店に勤務することになった。
忙しい日々を送っていたが、数年後和光に来て、独立。さつきの盆栽販売の仕事をするようになる。

ちょうど揚水小屋にいた人が交通事故で入院したことを機に、揚水組合長から頼まれて風沢さん夫妻が三代目の主に決まる。
「ここに住んで、本当にいろんな人との出会いがあったよ」としみじみとした口調。
とくに、和光の稲作を体現していた故・田中久作さんとは、よく一緒に仕事をしたそうだ。
「久作さんは、本当に自然のしくみを大切にする人だった。頭もよかったし働き者で、いろいろ教わった。水路の清掃も一緒にやった」
久作さんは、木の枝ひとつ伐採するにも、注意深かったという。木を生き物として大切にして敬意さえ払っていたからだ。
揚水小屋の敷地にある木々とともに、久作さんはそこに鎮座する水神さまも信仰していた。
さまざまな人の想いを受け継ぎ、風沢さんは今日も新河岸川を見詰め、水を揚げる。
2014年からリニューアルする環境協働会議の会員としても活動予定。